名古屋高等裁判所 昭和35年(ツ)22号 判決 1960年8月22日
上告人 工藤公三
右訴訟代理人弁護士 宗本甲治
被上告人 松本八重
右訴訟代理人弁護士 岩田源七
主文
原判決を破毀する。
本件を名古屋地方裁判所に差戻す。
理由
本件上告理由は別紙記載のとおりであり、これに対し当裁判所は次のように判断する。
原判決の説明によると、被上告人は、昭和三一年九月十三日上告人に対し昭和二七年一一月分以降昭和三一年八月分までの賃料の支払を催告しているが、右のうち昭和三一年三月分までの賃料は既に適法な供託によつて消滅しており、これに対する催告は無効であるが、昭和三一年四月分以降同年八月分までの賃料については、未だ適法な供託なく、賃料債務は消滅していないのであるから、右に対する支払の催告は有効であり、従つて、右催告にもとづき賃貸借契約解除の効力を生じ、上告人は本件家屋の明渡義務を負うに至つたというのである。
しかしながら、上述のように、被上告人のなした昭和二七年一一月分以降昭和三一年八月分までの賃料の催告に対し、そのうち昭和三一年三月分までの賃料の催告を無効としながら四月分以降の催告のみを有効とし、契約解除の効力を是認することについては、解除に関する法規の解釈上疑問がある。すなわち、民法第五四一条によれば、契約の解除をなすためには、その前提として債権者より債務者に対しその遅滞にかかる債務の履行を催告することを要するのであるが、その場合、一般に債権者の催告した債務額が客観的に正当な債務額に比し甚しく過大な場合には、債務者において客観的に正当な債務額を提供しても債権者はこれを受領しないのが通常であろうから、特別の事情の認められない限り、右催告は催告としての効力を生ずる余地なく、契約解除の前提要件を充さぬものと考えなければならない。本件において原判決の説示によると、上告人が被上告人より、賃料の催告を受けた昭和三一年九月一三日当時上告人の負担せる客観的に正当な賃料債務は、同年四月分以降同年八月分までの五ヶ月分の賃料(原判決の認定した基準によつて計算すると合計金五〇四〇円)に過ぎないところ、これに対し、被上告人の請求した賃料額は昭和二七年一一月分以降昭和三一年八月分までの賃料(原判決の認定した基準に従つて計算すれば合計金四万五一〇三円で、前記五〇四〇円の約八・九倍に当る)であるというのであるから、たとえ上告人において、上記の客観的に正当な賃料額を提供しても被上告人は恐らくこれを受領する意志がなかつたものと推測するのが相当である。従つて右のような賃料額であつても被上告人において、これを受領する意志があつたと首肯するに足る特別の事情の主張及び立証がない限りは、右の催告をもつて、契約解除の前提としての催告の効力を有するものと解することは、困難である。原判決が右の催告に契約解除の前提要件たる効力を認め、被上告人の明渡請求を容認するためには、すべからく、前述の如き特別事情の存在につき具体的な説明を加える必要があつたことと思われる。よつて、この点の理由摘示を欠いた原判決には、上告人所論のような理由不備のかしがあるものといわねばならない。
右の次第で、上告人のその余の主張につき判断をなすまでもなく原判決には、主文に影響を及ぼすべき違法の点あるものと認められるからこれを破毀し、なお、前示特別事情の存否につき審理判断をなす必要上、これを原裁判所たる名古屋地方裁判所に差し戻すこととし主文の如く判決する。
(裁判長裁判官 石谷三郎 裁判官 山口正夫 吉田彰)